第12回 聴衆の誕生
1. 音楽に格の差はある? なぜクラシックは教養で、ロックはサブカルなのか?
クラシックのコンサートと、ロックのフェスにはどのような違いがあるか?
クラシックの聴衆は、熱狂して叫ぶことは愚か、パンフレットを捲る音を立てたり、スマホをいじっているだけで、その場にそぐわない人間、という印象を持たれてしまう
一般的に、クラシック音楽は西洋圏で昔から、このようなあり方で嗜まれてきたと思われている
今回の回は、それは実はそうじゃなかった、という話をメインにする
音楽学者、渡辺裕の著書、聴衆の誕生(1989)
クラシックとロックで最も異なるのは、聴衆の態度である
そして、渡辺さんのこの本は、「聴衆は元からいたのではなく、生み出されたもの」ということを主軸に論理が展開されている
サブタイトル「ポスト・モダン時代の音楽文化」
これは、ポストモダンになって聴衆の聞き方が変わってきたことによって変わりつつある、ということを意味している
結論
我々がイメージしているクラシックコンサートのあり方は、19世紀になってから生まれたものである
18世紀以前のクラシック音楽の場所は、現代のジャズバーとかの方がイメージが近い
18世紀の音楽会の様子
音楽を聴くことだけを目的で音楽会に来ている人はほとんどいなかった
聴衆は誰か? -> 貴族のみで、貴族の社交界だった
そのため当然演奏中におしゃべりすることは禁止されていないし、お酒を飲んだりご飯を食べるのも問題なかった
過去の名曲を演奏するということは全くなかった
そもそも今クラシックの名曲と言われている曲の多くが18世紀以降に作られたものである
当時のモーツァルトが友人に送った手紙の内容
「自分のコンサートでは、玄人が楽しめる仕掛けもしているが、音楽の知識を何も持たない人でも楽しめるように工夫しています」
途中入室、途中退出もできるようにセットリストを組んでいた
交響曲、ハフナーは最初と最後に分割して演奏されたりもしていた
これが、19世紀になると状況が変わってくる
2. 19世紀、音楽の商品化とクラシックの高貴化
社会と技術の変容
19世紀に入るにあたって、どんな変化があったか?
産業革命
印刷技術が普及して楽譜が一般に流通するようになった
音楽の商業化
音楽文化を担う層が変わった:貴族からブルジョアへ
音楽は貴族の社交場に付随するもの、ではなくなった
「音楽を聴くことそのもの」を商品化するという必要が出てきた
最初は、演奏者に注目が集まった(演奏者を売り物にした) = ヴィルトゥオーソ
とはいえ、現代の天才ピアニストとは違って、曲芸師とか、ダンサーのような印象に近い
あるいはマイケルジャクソン的なアイドル?
演奏者を売り出すビジネスだったので、派手で目立つ演奏ができれば、楽譜通りに弾かなくていい、という感覚だった
しかしここで、音楽をただの商業のダシにしたくないと思う真面目な音楽好きも一定数出てきた
真面目派の音楽愛好者たちは、どうにかして商業的な音楽と、自分たちが好きな音楽とは違うんだ、という主張をしたいと考える
「芸術」という概念
産業革命以後、芸術という概念も再編されていた
今の芸術という概念は、絵画、演劇、音楽、建築などの複数のものをまとめて芸術と呼んでいる
これらに共通するものは何か?
昔はこれらをまとめて芸術と呼んではなかった
「美」の観念
美とは、精神と感性を繋ぐものであるという発想があった
いくつかの論文を引用しているが…カントやヘーゲルからも読み取れる
感性だけの快楽は、酒を飲むとか、風呂に入るとか、そういう類の事で、肉体的な快楽であると見なされ、逆に学問や政治的な営みは、精神のみを使う類のものだと考えられていた
精神と感性の中間にあってそれらいずれもを働かせるのが美
そして音楽は、前者の感性の方に分類されていた
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真面目な音楽愛好家たちは、商業の道具でしかなかった音楽を、「芸術」の一部にするために、音楽の「精神性」を強調した
ただ感覚的な快楽を感じるものではない、という主張
その主張を強調するために、精神性の希薄な低俗な大衆音楽と、精神的・芸術的な音楽とを二分して論じようと考えた
精神性を付与するために、彼らが用いた戦略は18世紀の音楽家を「巨匠として神格化」すること
巨匠の伝記が書かれ、しかも脚色を多く含ませることで、彼らを立派な芸術家としてブランディングした
ベートーヴェン
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6f/Beethoven.jpg/200px-Beethoven.jpg
過酷な運命の中でも、懸命に音楽と向き合ったベートーベン(女々しいことなどしない
鋭い眼光の肖像画が印象的、しかし実際には他にも肖像画が残っており、それらは優しげな青年として描かれているものも多い
銅像にされたり、絵画にされて、神聖なモチーフを与えられたりもしていた
楽譜主義的な音楽は、こうして生まれた
過去の類まれなる天才が一生をかけて精神性を追求した曲こそが、芸術音楽と呼ぶに相応しいもの、という認識を生み出した
「ジャジャジャジャーン」を聞いて
「なんかかっこいい」は素人、芸術がわかっていない(演奏でアレンジを加えるなどもってのほか
その裏にある「過酷な運命に立ち向かい、勝利を掴んだ人間の素晴らしさ」という精神性を汲み取れることこそ、高貴な音楽の聴衆に相応しいのだ
なんだかんだで商業的にも都合が良かった
過去の作曲家が作った楽譜ならライセンス料がかからない
音楽業界の構図は、知識のある者が、ミーハーに教えるような構図になり、音楽の聴き方に「倫理性」が導入され、低俗/高級という区分けが作られるようになり、「正しい音楽鑑賞」という概念が誕生した
3.音楽のポストモダン
20世紀に入ると、音楽業界にも少々変化が訪れる
(また)テクノロジーの発展により、音楽をコンサート会場に閉じ込められなくなった
蓄音機、自動演奏ピアノの登場
蓄音機の開発企業は、「音楽に囲まれた生活」「文化的な、温かみのある家庭」というイメージを布教した
18世紀の貴族社会のように、また音楽が日常空間に溶け込むようになってきた
(クラシック音楽以外の音楽はもともと日常空間にあったが)
さらに戦後、60年代から80年代に入ると、巨匠の脱神話化も起こってきた
音楽の歴史研究などで、19世紀に作られた巨匠のイメージが「つくりもの」であることが暴かれてきた
ベートーベン本人が書いた楽譜は、それまで流通していたものとは実は違っていた
モーツァルトは結構えぐめの下ネタを歌詞に入れていたが、19世紀に改変されていた
巨匠と音楽の精神性を結びつける価値体系が崩れ始めた
クラシックファンであっても、「正しい聞き方」という論理から外れる人も現れた
TVのCMで使われ始めたことで、クラシックは普段聞かないけど、「流行りのクラシックは好き」という人も現れた
クラシックコンサートすらも、音楽を聴きに行く場所、ではなく、デートスポットやおしゃれな記号、にもなった
(軽やかな聴衆
4. 音楽に精神性は不要?ージブリ音楽(久石譲)にも影響を与えたSteve Reichのミニマルミュージック
現代音楽:音への回帰
19世紀の音楽は、精神性を強調するが故に、音そのものへの着目が薄れていた
楽譜を読まなければ理解できない曲すらもあった
音はあくまで、精神性を表現するものなので、音を聞くのではなく、その曲の構成、作曲者の意図を理解することの方が重要だとされてきた
現代音楽家:スティーブライヒ
「作曲者の意図を解釈する芸術」という音楽から離脱した象徴的な人物の一人
例 : 二つのピアノで全く同じフレーズを弾くが、それを少しづつずらしていく、という作曲方法
https://scrapbox.io/files/6516ee90a626d0001c9aceeb.mp3
(以下のプラグインを使用して作成しました)
https://www.youtube.com/watch?v=i0345c6zNfM
https://www.youtube.com/watch?v=Jqoieg0Vqag
Musical Process(音楽の変化の過程)
「作曲家の精神の表彰としての音楽」ではなく、「その音自体、音のパターン自体の表現」として音楽を捉えている
参考
ミニマルミュージック
ジブリで有名な久石譲も、ミニマルミュージックをやっている
環境音楽
環境音(自然の音とか、街の雑音とか)を音楽に取り込む
偶然と意図したものを区別しない
コンサート会場に音楽を閉じ込めるという発想とは真逆
音楽を聴くことで、むしろ日常的な音を再発見する、という体験に変わった
著者の考察
近代化によって世の中のあらゆる箇所が合理化され、生活が「人の意図」で溢れかえっている中で、
人は「人の意図」にばかり直面ことに嫌悪を覚えるようになったのではないか?